エッセイ


「言った」「言わない」

(2017/07/30 福島民報掲載)

 結婚して数年の頃か、「言った」「言わない」という論争ほど無益なものはないと悟り、記憶を頼りに正しさを主張するのはやめにした。どちらかの記憶が間違っていることもあるが、人の記憶はもともと曖昧なものだし、時と共に変質もする […]

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危うい優生思想

(2017/05/28 福島民報掲載)

 デザインベビーという言葉が使われるようになって久しい。アメリカではノーベル賞受賞者の精子を高く買い、美人でグラマラスな女性の卵と受精させる、というのもあながち冗談ではないらしい。  神への冒涜、あるいは自然への挑戦と言 […]

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さよならキヱさん!

(2017/03/26 福島民報掲載)

 3月16日の朝、お寺に一本の電話が入った。私をこの世に取り上げてくださった産婆さん、渡邉キヱさんが亡くなったのである。行年は103歳、みごとな大往生であった。  それは昭和31年、4月28日の夜遅くだったらしい。産婦人 […]

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「ひよわな国」と移民の問題

(2017/03/20 やくしん掲載)

 イギリスがEUという単一市場からの完全撤退を決定した。移民の問題が一番の要因だったようである。相互の人の流入を制限しないシェンゲン協定の方針にも同意せず、イギリスは物の出入り(貿易)だけは維持したかったわけだが、「それ […]

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地方自治と脳の仕組み

(2017/03/15 地方議会人掲載)

 通信網の発達により、地理的な距離が人間どうしの距離を意味しなくなってきた。遠くに住んでいても、ネットでの通信があるから親密な関係が保てると思いがちである。  しかし我々の頭には、やはり物理的な距離の遠近がどこかに意識さ […]

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見えない輪

(2017/03/01 ノジュール掲載)

 滝桜に向き合うと、私は時に「見えない輪」を二つ感じる。謎をかけるつもりはないので申し上げてしまおう。「見えない輪」とは、一つは年輪、もう一つはその子孫樹が描く巨大な円のことである。  まず年輪だが、当然ながらこれは伐ら […]

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「つぶやき」のヘイト政治

(2017/01/22 福島民報掲載)

 いつから人々は、なにかを嫌うことを権利として認めるようになったのだろう。しかも私的な場面ではなく、公の場での話である。  思うにそれは「嫌煙権」という言葉からではなかったか。  好きとか嫌いというのは価値判断というより […]

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鍋の功徳

(2016/12/01 てんとう虫掲載)

 冬になると、鍋を囲みたくなる。鍋をつつくでも、鍋料理を頂くでもいいのだが、やはり鍋といえば「囲む」という言い方が似つかわしい。独りで囲むことはできないから、そこには当然家族の団欒があり、また客との交歓がある。  以前、 […]

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南山に雲起こり……。

(2016/11/30 東京新聞ほか掲載)

 禅語に、「南山に雲起こり、北山に雨下(ふ)る」という言葉がある。辞書によっては「雲を起こし」「雨を下(くだ)す」と訓じているが、これは中国語独特の表現であくまでも自発。他動詞的に訳すと余計な意味が付着する。  そんなこ […]

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イスラム社会と向き合う

(2016/11/13 福島民報掲載)

 イスラム社会の存在感がなんとなく増大している。しかも日本人には、ムスリム(イスラム教徒)についての知識が少ないから、IS(イスラム国)との区別もつかず、ただ怯えを増大させているかに思える。  イスラム社会といえば、すぐ […]

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禅における心とかたち

(2016/10/01 うえの掲載)

 臨済禅師一一五〇年、白隠禅師二五〇年遠諱(おんき)を記念し、東京国立博物館で「禅ー心をかたちにー」展が十月十八日から開かれる。先行してこの春に京都展があったわけだが、それとはまた些か形を変え、即ち心も入れ替えて再びのお […]

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さらば、ニャン太郎!

(2016/09/30 東京新聞ほか掲載)

 お盆になると、子供の頃からいろんなことが起こったものだ。東京オリンピックの年に二匹の猫が貰われてきたのもお盆前。またその後に飼ったナムという柴系の雑種もお盆に境内に捨てられた犬だった。近所の人に拾われたスピッツは同じく […]

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己の欲せざるところ

(2016/09/11 福島民報掲載)

 『新約聖書』マタイによる福音書第七章十二節には、「己の欲するところを人に施せ(Do as you would be done to)」とある。一方、『論語』には二カ所、顔淵篇(がんえんへん)と衛霊公篇(えいれいこうへん […]

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入我我入(にゅうががにゅう)

(2016/09/10 写真家 六田知弘展「火・風ノ貌 KA・FU NO BO」図録掲載)

 シャシンと聞いて、初めに「捨身」を想い、それから「ああ、写真」と思う。けれども写眞の眞とは何なのか、六田氏の作品を眺めるうちにわからなくなる。  眞は、いつかどこかに存在した束の間の時間かというと、そうでもない。印画紙 […]

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「往く」のではなく「還る」

(2016/07/18 新潮45掲載)

 臨済宗僧侶という立場上、特定の死生観を奉じていると思われるかもしれないが、むしろ逆である。つまり、多くの人々に戒名をつけ、引導を渡すことを仕事にしているため、故人それぞれの人生上のテーマを探し、それを肯定しなくてはなら […]

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第三者の「推認」

(2016/07/10 福島民報掲載)

 このところ、第三者委員会というのが流行っている。東京都知事だった舛添要一さんで有名になった感があるが、じつはその前の猪瀬直樹知事の問題のときも、また小渕優子元経産大臣の会計処理問題でも活躍した。  舛添知事のときは、「 […]

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踊りだした人々

(2016/06/24 琉球新報掲載)

 福島県の住民には遙かな沖縄が、とても近く感じられることがある。基地問題と原発の問題が、やはりどこか似ているのだろうか?  現政権は積極的に原発再稼働を構想し、そのプランの中には間違いなく福島第二原発も含まれている。東京 […]

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被災地で読む 心ひかれた 生き物の逞しさ

(2016/05/15 朝日新聞掲載)

 東日本大震災のときの自分の体験を振り返ると、ふた月ちかくは本が読めなかった。親しい編集者が『方丈記』(鴨長明著、角川ソフィア文庫など)を薦めてくれ、ようやく活字に浸る久しぶりの体験をしたのだが、これは今思うと邂逅とも言 […]

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ご縁の善し悪し

(2016/05/08 福島民報掲載)

 4月16日深夜、熊本で「本震」があったとき、私はすでに布団の中だった。翌朝、新聞で大変な事態が起こったことは知ったのだが、依然として私はそこに注意を集中できずにいた。  父が亡くなり、その本葬が4月18日であったため、 […]

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西来院での偶然

(2016/03/31 東京新聞ほか掲載)

 この世に偶然などないと考える人々もいる。そういう人々にとっては、悪いことが続いたりすると深刻である。必ず原因が明確にあるはずだと考え、それがはっきりしないのは自分の力不足だと思い、自責的にもなってしまう。逆に善いことが […]

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