日曜論壇
怪しい素顔
(エッセイ・
2020/6/14 )
新型コロナウィルスの流行により、マスク着用での外出や対面が新たなスタンダードになった。私自身は何十年ぶりかのマスクであるため、今も時々忘れ、お寺まで戻ったりする。 お経を唱える場合はご遺体と遺影のほうに向いているため […]
凜とした連帯
(エッセイ・
2020/4/12 )
「そんなに近づくんじゃない」。 そう言われて畳の上を後ずさったのは、道場の入門試験が終わり、雲水の責任者に初めて面会したときだった。人に敬意を示すには、距離が必要なのだ。距離は畏敬の表現なのだと深く自覚した。 一方で […]
花を弄すれば
(エッセイ・
2020/2/10 )
「花を弄(ろう)すれば香り衣に満つ」という禅語がある。もとは唐の詩人于良史の詩「春山夜月」の一節だが、禅の世界では時に作者の意図を超え、人生上の意味を込めて使うことが多い。ここでは、花に囲まれ花に触れていれば衣類に芳香 […]
覇権のゆくえ
(エッセイ・
2019/12/8 )
どうしても年の瀬になると、この一年を振り返ってしまう。なんといっても令和への改元が最大の画期だが、「令和」は大正新修大蔵経に百五十九カ所も登場する。しかもそのうち九十二カ所が「令和合」、つまり和合せしむる意味である。 […]
烏賊と原発
(エッセイ・
2019/10/7 )
私は六十三歳だが、近ごろ驚くほど体質が変わったような気がする。何より好きじゃなかった烏賊(いか)が食べられるようになり、いやむしろ旨(うま)いとさえ思うようになった。どこか深いところで宿年の拘(こだわ)りが解けたのだろ […]
瑞西の歌声
(エッセイ・
2019/8/4 )
七月下旬、福島市の音楽堂で「ふくしま復興支援コンサート スイス国と共に」と題した大がかりなコンサートが行なわれた。当初は私が理事長を務める「たまきはる福島基金」主催の予定だったのだが、福島市がスイスのホストタウンになっ […]
お墓の変化
(エッセイ・
2019/6/9 )
先日、岩手県の一関市へ出かけてきた。祥雲寺さんが始めた樹木葬墓地が二十周年を迎えるため、記念講演を頼まれたのである。 思えば墓地は、時代によってさまざまに変遷してきた。今は「○○家之墓」という棹石(さおいし)に法名碑 […]
使わせてもらってます
(エッセイ・
2019/4/14 )
中国と日本の関係は特別である。大まかに言えば、十五、六世紀までの日本は、中国からさまざまな文化・文物を取り入れ、独自のアレンジを加えながら日本化してきた。文字はその代表的なもので、仮名というアレンジ作品は産みだしたもの […]
仮設トイレでの快哉
(エッセイ・
2019/2/17 )
シナイ半島への陸自派遣が決まった。二回目の米朝首脳会談も決まり、日ロの領土交渉も大詰めに向かいつつある。世の中を見まわすと息苦しい出来事に満ち、また私も原稿の〆切が間近に迫っていたのだが、二月十日のお寺ではそれどころで […]
12月8日
(エッセイ・
2018/12/16 )
12月8日といえば、我々禅僧にとっては特別な日だ。お釈迦(しゃか)さまが今からおよそ2500年前、12月8日の明けの明星を見て大いなる覚醒を得たという。その覚醒を追体験しようと、あちこちの道場では7日間、ほぼ不眠不休と […]
まだ高い薬価と「偽増悪」
(エッセイ・
2018/10/14 )
十月一日、今年のノーベル生理学・医学賞に、本庶佑(ほんじょたすく)先生の受賞が決まった。先生の最大の功績は、おそらく「がん免疫療法」に道を拓(ひら)いたことだと思うが、これはじつに画期的なことである。 がんといえば、 […]
無茶
(エッセイ・
2018/8/12 )
筋道が立たないこと、道理に合わないことを昔から「無茶」という。誰もが何度も口にした言葉だと思うが、「無茶」はどうして「無茶」と書くのだろう? 小学館の『日本国語大辞典』によると、「無茶」はあて字、「無茶苦茶」もあて字だ […]