日曜論壇
さよならキヱさん!
(エッセイ・
2017/3/26 )
3月16日の朝、お寺に一本の電話が入った。私をこの世に取り上げてくださった産婆さん、渡邉キヱさんが亡くなったのである。行年は103歳、みごとな大往生であった。 それは昭和31年、4月28日の夜遅くだったらしい。産婦人 […]
「つぶやき」のヘイト政治
(エッセイ・
2017/1/22 )
いつから人々は、なにかを嫌うことを権利として認めるようになったのだろう。しかも私的な場面ではなく、公の場での話である。 思うにそれは「嫌煙権」という言葉からではなかったか。 好きとか嫌いというのは価値判断というより […]
イスラム社会と向き合う
(エッセイ・
2016/11/13 )
イスラム社会の存在感がなんとなく増大している。しかも日本人には、ムスリム(イスラム教徒)についての知識が少ないから、IS(イスラム国)との区別もつかず、ただ怯えを増大させているかに思える。 イスラム社会といえば、すぐ […]
己の欲せざるところ
(エッセイ・
2016/9/11 )
『新約聖書』マタイによる福音書第七章十二節には、「己の欲するところを人に施せ(Do as you would be done to)」とある。一方、『論語』には2カ所、顔淵篇(がんえんへん)と衛霊公篇(えいれいこうへん […]
第三者の「推認」
(エッセイ・
2016/7/10 )
このところ、第三者委員会というのが流行っている。東京都知事だった舛添要一さんで有名になった感があるが、じつはその前の猪瀬直樹知事の問題のときも、また小渕優子元経産大臣の会計処理問題でも活躍した。 舛添知事のときは、「 […]
ご縁の善し悪し
(エッセイ・
2016/5/8 )
4月16日深夜、熊本で「本震」があったとき、私はすでに布団の中だった。翌朝、新聞で大変な事態が起こったことは知ったのだが、依然として私はそこに注意を集中できずにいた。 父が亡くなり、その本葬が4月18日であったため、 […]
岳温泉のひな祭り
(エッセイ・
2016/3/6 )
毎年三月のひな祭りの季節には、二本松市の岳温泉に出かけることになっている。「あだたら万遊博 おかみと過ごすひな祭り」というイヴェントがあり、私も講演を依頼されているのである。 岳温泉観光協会女性部と「おかみ会」の主催 […]
入会地という思想
(エッセイ・
2016/1/3 )
中間貯蔵施設が暗礁に乗り上げている。約16万平方キロの予定地に、地権者は約2400人。ところがそのうち、約1200人しか居場所や名前がわからない。残りの1200人ほどは、行方が分からなかったり、また登記の名義人が亡くな […]
オノマトペ
(エッセイ・
2015/11/1 )
日本語にはオノマトペ、つまり擬音語・擬態語などが五千もあり、世界的にも珍しい言語らしい。たとえば近頃の私の気分も、気鬱や諦念などの漢語では表しきれず、「うんざり」としか言いようがない。 TPPという秘密交渉の、結果の […]
「洗い」と「石場建て」
(エッセイ・
2015/8/30 )
本堂の改修工事がほぼ終わり、あとは漆塗りなど一部を残すだけになった。山形の加藤工匠の棟梁ほか3人の大工さん、銅屋根を葺(ふ)いてくれた小野工業や鳶(とび)職の面々、左官屋さん、建具屋さんに畳屋さん、そして電機屋さんや洗 […]
牛五郎の恋と平和
(エッセイ・
2015/6/28 )
6月、皐月(さつき)が咲く頃に、今年もウシガエルの牛五郎が池で鳴きだした。我々夫婦が勝手に「牛五郎」と呼んでいるのだが、まだ姿は見たことがない。以前はよく考えもせず、どこかから来るのだと思い込んでいたが、どうも彼らは池 […]
さまざまの事
(エッセイ・
2015/4/26 )
桜が今年も咲き、大勢の人々が三春の町にやってきた。昔から「年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず」と言うが、今年は特に「人同じからず」を強く思った。 歳々年々人同じからずとは、本来は同じ人の年齢による感受性の変化の […]