禅語・仏教語
精進料理百選 建長寺と鎌倉の精進料理
(書籍・
2005/9/27 )
臨済宗建長寺派総本山・建長寺完全監修 帯文を書きました。 「『世の中にゴミはない』という禅の思想。 それを食の世界で実現したのが精進料理だが、代表的なのが「建長汁(けんちんじる)」だろう。また、ここには臨済禅の古式の茶礼 […]
言語道断と自業自得
(エッセイ・
2005/2/26 )
よく耳に馴染んだ四字熟語だと思うが、正確な意味はご承知だろうか。 言語道断(ごんごどうだん)はよく「道」が「同」と間違って書かれるが、本来「道」は「いう」と読み、言語で道(い)うことが難しい不可思議な仏法のこと。禅語 […]
どっこいしょ
(エッセイ・
2005/2/19 )
立ったり坐ったりするとき、「どっこいしょ」と呟(つぶや)いたりすると「年だなぁ」なんて冷やかされる。あるいは自分で自嘲のわらいを漏らしたりするわけだが、この言葉、もともとは「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」がなまった […]
魔羅
(エッセイ・
2005/2/12 )
思わず眉(まゆ)を顰(ひそ)める方もおありだと思うが、これも仏教語なのだから仕方ない。もともとは僧侶たちだけが使った隠語なのだが、いつのまにか世間に知られてしまった。ばらしたのは誰だ? 本来は梵語(ぼんご)のマーラだ […]
檀那と坊主
(エッセイ・
2005/2/5 )
「社長、ちょっと寄ってくださいよ」なんて今の客引きは誘うが、昔は「旦那(だんな)さん」と呼びかけた。この「旦那」、本来は「檀那」と書く。梵語のダーナパティの音写である。 もともと仏教教団を経済的に支えた布施者のことだ […]
ホラ吹き
(エッセイ・
2005/1/29 )
ホラ吹きとは、一般にはウソつきのことだが、時には事を大袈裟(おおげさ)に話すことも含む。その場合は特に「大法螺(おおぼら)を吹く」と言ったりする。 ご存じのように、法螺とはもともと修験道などで使われるホラ貝製の楽器で […]
後生と一蓮托生
(エッセイ・
2005/1/22 )
最近はあまり耳にしなくなったが、「後生(ごしょう)だからお金貸しておくれよ」なんて、昔はよく聞いたものだった。今でも時代劇だと「後生だから命ばかりは」などと頼む。 この「後生」は、むろん本来は後の生、つまり来世のこと […]
莫迦
(エッセイ・
2005/1/15 )
以前、『全国アホ・バカ分布考』という本があった。題名に似合わずまじめな言語学の本で、柳田国男さんの『蝸牛考(かぎゅうこう)』を推し進める形で言葉の発生と伝播(でんぱ)について論じていた。 つまり昔の言葉のほとんどは京 […]
師子身中の虫
(エッセイ・
2005/1/5 )
元来 仏法に害なす者 たいていは「恩恵をこうむりながら味方を裏切る者」といった意味で使われるが、もともとは「仏法に害をなす者」。獣偏を省いて師子と書くが、これは経本における習慣で、獅子と同じと思っていい。獅子は本来は架 […]
翻訳された神さまのこと
(エッセイ・
2004/1/31 )
ある宗教が外国に輸出される場合、どうしても翻訳作業が伴う。ということは全く新しい概念が入ってきたとしても、それまで使われてきた言葉に翻訳される限りどうしても変質せざるを得ないということだ。もともとその言葉にあった意味が […]
禅的生活
(書籍・
2003/12/8 )
今の「私」は、なんだか窮屈ではないか。 のびやかで風流な自分に出遇う旅。自由自在。 さまざまな禅語を通じて禅の世界観を味わい、日常生活に具体的な変化を生み出していただくのが本書の狙いである。迷いや辛さがすこしでも減り、楽 […]
私の一点
(エッセイ・
2003/6/26 )
目の悟り 本来の自己「現す」のが真骨頂 (鎌倉-禅の源流展) 新聞紙上でどの程度文字が読みとれるか疑問だが、これは大覚禅師蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が建長寺で弟子に示した言葉である。「無位の真人」(あらゆる立場や役 […]